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独身27歳の中卒ニートが人生に危機感を覚えながら書くブログ

思考停止人間

事実が一つでも真実が一つとは限らない

誰かに問うわけでもなく、これは自分への戒めとしても残すことにします。

インターネットは本で調べられる以上の情報は得られない

私は疑問に思った、引っかかった、腑に落ちないと思ったなら徹底的に調べる癖があります。今の時代は便利で、気になることはインターネットで調べればあらかたの情報は出てきます。サイトやブログでは調べたい情報が纏めてあり、それを更に纏めている場合もありますね。簡単に調べられて素早く目的の情報に辿りつける現代において様々なことへの興味関心が薄れつつあるのは仕方のないことかも知れません。知りたいと思ってることは大抵が誰かが知っているものです。

その誰かを探すのは田舎で育った自分には難しかったのでした。

疑問を持たない怖さ

昔、友人の妹さんと会話していた時にとある話題が持ち上がり「どうしてそう思うの?」と聞いたことがありました。その時の妹さんはまだ学生です。彼女は「インターネットで書いてた」と言いました。私はそれを聞いて何となく寂しい気持ちになりました。

小学生時代の自分を振り返る

小学生の頃は「なんで?どうして?」と猫をも殺すような好奇心で野山を駆け回り、周囲を困らせるような探究心で学校生活を送っていました。クラスの人数どころか全校生徒さえ手と足の指で事足りる人数といえばどれだけ田舎だったかお分かり頂けるでしょうか。

学び舎とは偏に勉学だけではなく、集団生活を学ぶ場でもある

私は知識欲ばかりで空気を読むほどの知性はありませんでした。これはその後の中学校生活において大変苦労した点ですが、全校生徒の少ない学校では学ぶことができなかったのです。

知識を得るという点において

人数が少ないということは圧倒的に不利でした。私のくだらない疑問に対してクラスメイトは答えを知らないし、むしろ興味もなかったでしょう。

身近な知識人と言えば学校の先生

担任の先生は私と入学を同じくした新米教師ということもあり、あらゆることに余裕がない印象でとても頼りなく思いました。そんな人に質問を投げかけても返ってくる答えは「授業が終わってから」授業が終わると「放課後に」放課後には「また明日ね」です。嫌われていたのではないと思いたいです。その先生がとても好きだった小学生の私がその事実を知ったらきっと傷つきます。

分野によっては先生よりも物知りな学友との出会い

無知な自分に対してとても博識で柔軟な思考を持つ学友が居ました。勉強も習い事も卒なくこなす優等生で、ピアノが弾けてテストの点数はいつも満点でした。分厚いメガネをかけて本を読む姿が記憶に残っています。身体を動かすことは得意ではない印象だったがサッカーがとても好きでよくキーパーをしていました。

いじめっ子たちが黄金の右足で繰り出す無回転ボールのマトに彼を選んだわけではありませんよ。サッカーをするために集まる時は決まって彼が中心となっていました。誰もキーパーをしたがらないため、彼が買って出ていたのです。

まるで冒険のような刺激的で楽しい時間の共有

なんでなんで星人だった私にとって彼は辞書のような人だと感じました。そんな私達だったから仲良くなるのに時間は掛かりませんでした。わからないことがあれば彼に聞き、わからないことは一緒に調べるのです。未開の地に繰り出すような感覚で、知識の収集は冒険でした。目を輝かせる興奮のひと時でワクワクが止まりません。物知りな彼でさえ知らないことがこの世の中にあるのです。世界の広さと言えば大げさですが、情報の大海原に漕ぎだす時はいつもドキドキしたものでした。

「頭の良さはテストの点数では測れない」

中学生になった頃に出席番号順に座った席の二つ前の子が得意げに言いました。確かにそう思う点もあるが、体裁の良い言い訳にはして欲しくはありません。

学力とは違う地頭力

彼は放課後になると熱心になぞなぞの本を読んでいました。母親がとても厳しい人で唯一許してもらえた娯楽がなぞなぞの本だったと言います。

母親の徹底的な教育方針と育成環境

彼の家に遊びにいくと流行りのおもちゃはなく、部屋にはブロックや輪っかの知育玩具や電子工作などが置いてあり、話題の乱闘する対戦ゲームはないのかと聞けば脳トレ系のソフトしか持っていないとのことでガッカリしました。

本もクイズやなぞなぞ、図鑑や辞典、英語の本もおいてあってなんだか目眩を覚えました。「これが英才教育ってヤツなのか」と子供ながらもその徹底した環境に呆れてしまいました。

父親の想い

唯一部屋の入り口付近に漫画が一作品だけ何冊か置いてありました。日本にサッカーブームを起こした漫画で、聞けば父親の物だと言います。母親は厳しいけれど、父親は寛容で優しい人でした。「尻に敷かれる」という言葉を覚えたのはこの時だったと記憶しています。

彼がサッカー好きなのはこの漫画の影響でしょうね。

私は古い漫画に興味はなかったし、不憫に思った父親が貸し与えた私物を借りる気にはなれませんでした。空気を読めない私が遠慮したくらいには可哀想だと感じたのです。代わりに彼が熱心に読んでいたなぞなぞの本を貸してもらって読みました。

彼の持つ柔軟な発想の原点

誰でも知っているなぞなぞに「パンはパンでも食べられないパンはなんだ?」というものがあります。模範解答は「フライパン」ですね。発想が柔軟な子は「ジーパン」とか「短パン」と考えるかも知れないし、実直に「腐ったパン」だというかも知れない。それに対して「食べようと思えば食べられる」と返す子もいるでしょう。

「食べられない」というと「食事するもの」を連想しますが、その考えが既にお堅いと言えるでしょう。「パン」は「食べ物」である必要はないのです。ただの言葉遊びが私にはとても面白く感じました。なぜなら自分の中にそういう考え方がなかったからです。

考え方はきっかけ一つで簡単に変わる

答えは一つじゃないのかも知れません。考え方によっては別の解が導き出せるのではないでしょうか。その結果に至った経緯はなんだったのでしょう。人それぞれ考え方があり、どれも正解であり、間違いではないのです。一つに絞ることは視野を狭める行為だと気付きました。

答え合せがしたいだけ

私は疑問に思うことを知ってる人に教えを請い、答えが返ってきたら納得して終わりでした。その答えに疑問を抱いたりはしません。先生が教科書をそのまま読み上げ、例題を解き「こういうものだ」と教われば納得していました。素直に真面目に言われた通り、習ったことを習ったようにやり、うまくできなかった時は叱られ、訂正されるのです。そして繰り返し繰り返し覚え込まされてきたのでした。

教えられたことを教えられた通り誰よりも上手く出来た子が一等賞

洗脳といえば大げさだけれど、考え方を刷り込まれている気がして恐ろしく感じました。

物知りな学友は親や先生の期待に従順に答え、成績を伸ばし、習い事もしっかり取得していきました。周りの子が昨日見たアニメの話や今度発売されるゲームの話題で盛り上がる中、彼はいつも会話に混ざれず一人だけ浮いています。

頭の良さはテストの点数では測れないことは私もよく知っています。点数で彼より上回ることは何度もあったが、持ち前の博識を活かした柔軟な考え方と思慮深さから滲み出る知性には遠く及びません。テストなんて教えたられたことを理解しているかという確認作業に過ぎないと悟った頃、彼はきっともっと遠くに居たことでしょう。

彼が抱いていた真意を考察する

そんな彼だからこそ、既に様々なことに気づいていたような気がします。母親に遠慮して気を遣っていたのかも知れません。本当は皆と同じように娯楽を楽しみたかったのではないかと考えます。唯一与えられた漫画によっぽど影響された彼を見て勝手に想像しました。

ロボットのようだと嗤われ蔑まれ、それでも自分がするべきことを見極め行動していたように思います。真相など気にもせず上っ面だけを見る愚かしい私たち凡人とは一線を画していた気もします。

彼はその後、小学校卒業と共に進学を見据えた転校で田舎から姿を消しました。

私たちは知らず知らずのうちに植えつけられている

「学校の廊下を走るな」

この校則について先生に何故かと問えば「それがルールだ」と答えました。教えるのが面倒でそう言ったのなら虫の居処が悪かったのでしょう。今まで散々投げかけられた質問であるだろうし、うんざりしていても仕方ありません。私が知りたいのは経緯でした。

それは「危ないから」で十分なのです。実際に怪我をした人たちだって居ることは想像に難くありません。

物事は人によって捉え方が変わる

いわゆる不良生徒であった中学校の友人が「校則は破るものだ」と言いました。彼はなぜそう思ったのか?大人たちの敷いたレールの上は走らないという思考がそうさせるのか。それとも「自分は大丈夫だ」という根拠のない過信からくるものなのか。

全ての意見を取り入れた上で広く見渡す

果たして本当に「危険だから」という理由だけで禁止しているのだろうかと愚考します。残念ながら「別に気を付けていれば誰に迷惑を掛けるでもないのだからいいだろう」と嘲笑う自己中心的な人も居ます。先生は「危険だから」と言うのですが、生徒は早歩きやスキップで校則の穴を探るのに躍起です。これではルールは守られてるようですが秩序は確実に乱されることでしょう。

人は経験し、学ぶ生き物

その行為が危険なことは成長とともに学んでいきます。しかし表現を大きく括り過ぎて曖昧なのです。意図が正しく伝わらず、生徒はルールの本質を見抜けない。屈折していく思考の中で正当化する者も現れるでしょう。

優先すべきは個人よりも大多数の集団

教育の場においてこのような疑問は重要視されません。「そんなことを考えている暇があったら勉強でもしろ」と一喝されることでしょう。それは絶対的な決まりであり、覆ることはないので議題にあげる必要もないのです。

改革を宣言しても徒労に終わることは目に見えており、あまりにも合理的で理に適っているのだから良いではありませんか。子供の疑問を徹底的に押しつぶし、懇切丁寧に教える時間を省けるのです。

子供達には自発的に気づかせるべきだという大義名分を得て無駄な教育は放棄することができます。

生産的な現場環境を構築して職務に集中して励めるのだから素晴らしいことです。ルールは先人の経験則や過去の事例などを交えて少しずつ良い方向へと決まっていったのです。そこに疑問を挟むのはおこがましいことと思うでしょう。瑣末な問題は全て一言で片付けられるのでした。

「常識」という思考停止の最たる言葉

言葉にはしなくても、それは空気のように取り巻き、簡単には逃れられないもの。その空気を読むお勉強も教育の場ではしっかりと叩き込まれています。正義と悪で明確に分け隔て、非常識を良しとはしないのです。

常識とはなにか

常識と言われれば知っていなければ恥ずかしいことのように感じます。恥ずかしいとは誰が決めた訳でもないのに、なんとなくそう感じてしまう。そういう場合に恥ずかしいと思うこともきっと常識なのでしょう。

廊下を走ってはいけないことは常識。ドタバタ走る人間は非常識であり、周りからは冷めた目で見られます。自分たちは守っているのに、あの人は守れないのだと誹謗中傷に晒される。人と人が関わる以上、ルールが必要で、暗黙のうちに互いが了承しているのです。

恥ずかしいと感じるかどうかは人による

非常識と常識の間に当てはめて考え、一つの答えを出さなければならないと考えるのであれば思考のルーチンは完成しているでしょう。それも一つの考え方としてありです。しかしAとBの答えがあるならCという解もあって良いはずではないでしょうか。どちらでもないという選択肢は逃げであり、悪なのでしょうか。

波風立たせない為に思考を拘束する

授業に遅れそうでどうしても走らなければならない理由があった場合でも、やはり校則違反として扱われてしまうでしょう。情状酌量の余地はなく、我々は授業に遅れないように行動しなければならないのです。問題の大小に関わらず、時に空気以上の力を振るっても、それ以下にはならないのが現実です。行き過ぎたルールの徹底は見えない暴力と言ってもいいのではないでしょうか。

最初からフェアじゃないものに異論を唱えること自体が愚行になります。

立場の違いでも考え方は変わる

「決まりごと」は全て管理する側の都合になります。管理下にある人間には関係の無いこと。押し付けであり、考え方さえ管理されるのです。外部からやいのやいの好き勝手言える立場は気楽でしょう。大抵の場合において介入する余地がないのだから、無駄なことはしない方が懸命です。

見えない教育は続いていく

ニュース番組はその殆どが伝えて終わります。その後どうなったのかなど一部を除いて誰も気にはしないでしょう。「そういうもの」といつの間にか出来上がった効率的な報道です。どうしてそうなってしまったのかなど一個人の為の報道が行われることはありません。個人よりも大衆に向ける一方的で分かりやすい内容を繰り返し、覚え込ませるように同じ報道が各局で行われることに疑問を感じます。

様々な時間帯を想定して万人に向けるもので、人に伝えるべき情報を簡素に分かり易く纏めた結果として仕方ないのかもしれませんが、強調する点に悪意がある時も見受けられます。一つくらいは違う見解から切り込みつつ真相に迫っても良いのでは無いでしょうか。

コメンテーターが進行と逆の意見を述べると番組の意図とは違う方向へ行かないよう、必死に否定している姿は滑稽に見えるのです。目に見えない空気の圧力があることは明確でした。どうして必死に隠そうとしたのだろうと考えるが、そこにどのような真実が隠れているかなど誰も興味は持たないでしょう。大衆が興味を持たないことに報道は行われないのです。

我々の思考は平均化されていく

被害者と加害者という分かりやすい図式は視聴者を煽るのにうってつけで、事実関係が明確になる前に報道を重ねて悪を確実なものにします。冤罪だと発覚する頃には別の報道に埋もれていく事件を何度か見てきました。ニュースだけではなく、インターネットの情報を鵜呑みにしている人もいますね。

与えられる情報が全てであり、真相など考えもせずデマが流れれば簡単に踊らされるのです。順序立てて説明して、上手く繋がったならば大抵の人は信じてしまうでしょう。人は一度でも認めてしまえばその思考からは離れられず、過ちを中々訂正できないのも事実です。

一つの疑問で世界は変幻自在に置き換わる

なぞなぞの答えはフライパンかも知れません。廊下は走ってはいけないと私も思います。その場の空気を読み、正解だと思われる方を選択するということに疑問はありません。そうやって生きていくのが処世術であるならそうするべきで、無駄な労力を使いたく無いのなら長い物に巻かれていた方がいいでしょう。

それらを踏まえた上で、一歩引いて考えることが大事なのではないでしょうか。自分の意見が言えない人間にはなりたくはありません。気になるものは気になります。それらを私は記にしたい。内容がどちらか一方を否定する形にならないよう伝えたいことを述べる技術は残念ですがまだありません。いつか必ず言及出来るように成長したいと考えてます。

個人の考え方に正解なんてないのです。人の数だけ正解があるのです。それでいいでしょう。相手の意見も尊重して自分も意見します。自分の意見が言えなくなったならこう言えばいいと考えます。

「YESかNOかで言えば、どちらでもない」

言った後で少しだけ考えてみればいいのです。最終的にYESとNOで落ち着くとしても最初からどちらかに傾倒しないように。

どうか本当の自分を、個性を大切にして下さい。